永源遥

永源遥が亡くなったというニュースが流れました。東京、日本、新日本、ジャパン、全日本、ノアと、6団体を渡り歩いたことで、生き証人といわれています。昭和プロレス的にもその訃報は取り上げなければならないことだと思い記事にしました。



正直、永源遥は、興業の柱となるチャンピオンとしての実績はありません。

シングルのベルトを巻いたことがなく、タッグでは、新日本プロレスが国際プロレスと関係が近かった頃、IWA世界タッグ選手権が両団体の選手によって何度か移動しましたが、そのなかで、ストロング小林とのコンビでIWA世界タッグ選手権を取っただけです。

しかし、これは禍根を残すタイトル移動でした。

それ以外にも、引退間際の山本小鉄や、藤原喜明的なポリスマン役の星野勘太郎、国際プロレスを離脱したストロング小林などが戴冠。

要するに、新日本プロレスが、国際プロレスを格下の団体と見て、所属レスラーに泊を付けるために同団体の看板タイトル利用したわけで、その恩恵に預かったのが、新日本プロレスでは間違ってもタイトル戦線には絡まなかった永源遥だったわけです。

本当は、やりたくなかった金網デスマッチなどを行って、体を張って団体とタイトルを守ってきたマイティ井上がこれに激怒。

国際プロレス崩壊後、吉原功社長の方針に従わずに、全日本プロレスに移ってしまったほどです。

ただ、プロレスラーの価値というのは、チャンピオンベルトを巻く人だけではありません。

チケットをどれだけ売れるか、前座レスラーとして、観客をどれだけあたためられるかも重要。

永源遥は、その点で価値があったようです。

東京プロレスが崩壊して、アントニオ猪木が日本プロレスに復帰した際、東京プロレスから連れてこれる若手選手の人数を決められたそうです。

たとえば、魁勝司(新海弘勝)のように、もともと日本プロレスにいたレスラーの復帰ならともかく、ラッシャー木村に誘われて東京プロレス入りした永源遥が、その中に入っていたのは意外でした。

何しろ、誘った方のラッシャー木村が選ばれず、日本プロレスに復帰できなかったのですから。

日本プロレス時代に、金曜8時のテレビマッチに登場したことはありませんが、セコンドに付いていて、時折実況で名前が出ました。

アントニオ猪木が、ワールドリーグに初優勝した1969年には、日本プロレスがフレッド・ブラッシー、スカルマーフィー、ブルート・バーナードなど、当時来日していた外国人レスラーと、日本プロレスの主力選手によってシンガポールに遠征していますが、永源遥は、高千穂明久とともに若手代表で選ばれています。

第13回ワールドリーグでは、セコンドとしてザ・デストロイヤーの足を引っ張ったため、決勝戦では、ザ・デストロイヤーがセコンドの永源遥を追い払うシーンが出てきます。



アントニオ猪木除名のときは、バンザイもしていました。

アントニオ猪木除名

そして、日本プロレス崩壊直前に、口減らしでアメリカに出されます。

一説によると、アメリカ遠征はもっとはやく決まっていたのに、事務手続きのしくじりで遅れたため、その担当者を怨み、担当者が全日本プロレスに入社したことで、永源遥は新日本プロレスを選んだ、などともいわれていますが、真相は定かではありません。

坂口征二が誘ったから、という理由ではないのでしょうか。

永源遥

その後、ジャパンプロレスに移り、同団体の分裂後は全日本プロレスにいちはやく残りました。

ジャイアント馬場に集金力を買われて、と、当時の門茂男氏の書籍には書かれていました。

ジャパンプロレスが全日本プロレスと提携していた頃は、永源遥はほとんど試合をしていません。

選手が飽和状態だったこともありますが、それだけ大所帯だっただけに、すでにその時期から営業の仕事を行っていたのではないでしょうか。

ジャパンプロレス勢が抜けた後、選手が少なくなると、またリングに復帰。

それ以降は、悪役商会として、休憩前の試合で観客をあたためます。

シリーズの最終戦。日本武道館に見に行くと、永源遥や百田光雄は、いつも正面の入り口でウロウロしていました。

いろいろな意味でのポリスマンだったのでしょう。

巡業時は、グレート・ザ・カブキとともにマッチメーカーであったとも言われています。

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そして、三沢光晴らとともにプロレスリング・ノアへ。

アントニオ猪木が、永源遥の世渡りを皮肉るコメントをこの頃出しています。

離脱にあたっては、試合をしていなくても報酬を得るジャンボ鶴田を暗に批判したと言われています。

渕正信についても批判していたインタビューがありました。

しかし、永源遥の利口なところといいましょうか、決してジャイアント馬場を悪くは言わないことです。

逆に、引退試合で、長くプロレスを続けてきたのは、ジャイアント馬場のおかげであると感謝しています。

永源遥に限りませんが、やはり日本プロレスに在籍していた人は、ジャイアント馬場に対する畏敬をどこかに残しています。

たとえば、グレート・ザ・カブキは、全日本プロレス社長としてのジャイアント馬場には批判的です。

ところが、レスラーとしてのジャイアント馬場に対しては、類まれなるフィジカルエリートであることや、観客を意識した名パフォーマーであることをきちんと評価しています。

馬場夫妻の悪口なら一晩では足りないと豪語していたミスター・ヒト(安達勝治)ですら、アントニオ猪木はジャイアント馬場を超えられなかったと言っています。

団体は、エースレスラーに食べさせてもらっている、という意識があるのだと思います。

それはともかく、プロレスリング・ノアにおける永源遥は、例の成田眞美による泉田純太郎、三沢光晴夫人に対する詐欺事件で、泉田純につなぐ役割を果たしたことで、プロレスリング・ノアの取締役を辞任。

仲田龍と永源遥が「辞任」の真相、プロレスリング・ノアの真実
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今回の訃報によると、プロレスリング・ノアはすでに退社していたようです。

もともと、ご意見番のように意見を述べたり、昭和プロレスを振り返るインタビューを受けたり書籍を上梓したり、といったことはしてこなかった人ですが、やはり昭和プロレスの生き証人がまたひとりいなくなってしまったことは事実です。

永源遥さんの生前のご遺徳をお偲び申し上げます。

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