日本プロレス

日本プロレスが、いよいよ幕を閉じることを発表したのは1973年4月14日。力道山の街頭テレビ中継以来、安定した視聴率を確保してきたテレビソフトとしてお馴染みの「プロレス」にとって歴史的出来事でした。

池上本門寺に、長谷川(芳の里)淳三代表、力道山夫人の百田敬子さん、大木金太郎以下、9名のレスラー達が集まり記者会見を開いた。日本プロレス興業が、この日で活動を停止すると発表されたのです。



日本プロレス(以下日プロ)はもともと、力道山、三菱電機、正力松太郎という三者の関係によって、長く日本テレビで独占中継されてきました。

それが69年4月、「ジャイアント馬場と坂口征二、インターナショナル選手権とワールドリーグは日本テレビのみ放映権を持つ」という条件で、NET(テレビ朝日)とも契約を締結したと発表。

要するに日本プロレスは、テレビ中継で局から得られる放送権利料が倍増したことになります。

しかし、それによって日プロには、結果的に崩壊につながる2つの問題が発生しました。

ひとつは日本テレビ(ジャイアント馬場)、NET(アントニオ猪木)という2大スターを並立させなければならなくなったことで、会社自体に目に見えない亀裂が生じてしまったことです。

それまでは「若獅子」の異名でナンバー2だった猪木は、「馬場と同格」になることをNETに求められます。

以降、猪木はその年のワールドリーグに優勝。NET主導の興行といわれたNWAタッグリーグでの連覇。さらにジャイアント馬場の保持するインターナショナル選手権に対抗できるタイトルとして、ユナイテッドナショナル選手権者になるなど、急速に実績作りが行われました。

それは社内で「馬場派」「猪木派」の派閥対立を激化させることになり、もともと野心家だったアントニオ猪木自身もジャイアント馬場に対決を迫るなど、トップの座を巡る争いは熾烈になりました。

もちろん、アスリートとしてナンバーワンを目指すのは間違いではありません。

しかし、事はそれほど純粋ではなく、テレビ局のメンツや利益が絡んだ主導権争いという複雑な側面があったことは否めません。

最近になって、グレート小鹿が、悪いのは馬場さん猪木さんではなく、炊きつけたユセフ・トルコだ、という話を始めていますね。

本人が存命の時は、いえなかったんでしょうね。

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もうひとつは、金がたくさん入ってきたことで、幹部のルーズな金銭管理が露呈してしまったことです。

役員が金庫から札束を鷲づかみにして夜の町に消え、ビアノの生演奏を楽しむという話はファンの間では有名です。

その結果、アントニオ猪木やジャイアント馬場ら選手の間では、「経営を改革しよう」という声も上がったものの、正式な税理士でもない自分の子飼いを経理責任者にしようとしたアントニオ猪木は71年12月、会社乗っ取りの廉で日プロを除名されてしまいます。

アントニオ猪木がいなくなったNETは、今度はジャイアント馬場を放送させろと日プロに話を持ち込みます。

日プロがそれを認めたために日本テレビが激怒。長年にわたって放送されたプロレス中継を72年7月に打ち切られますが、力道山時代からの信頼関係を裏切られた日テレは、それだけではすまずに、何とジャイアント馬場を日プロから引き抜いて実質子会社の新団体、全日本プロレスを作らせ、10月にはプロレス中継を再開してしまいます。

アントニオ猪木もジャイアント馬場もなく、脇役の大木金太郎と当時は未完成だった坂口征二をメインとする日プロは、たちまち興行的にも視聴率的にもたちゆかなくなってしまいました。

そこでNETは、日プロに対し72年11月頃、同年1月に新団体を作ったアントニオ猪木との合流を勧めます。

が、かつてアントニオ猪木を除名した大木金太郎ら日プロの選手会は結果的にそれを諒とせず、坂口征二とその付き人らだけが新日本プロレスに合流します。

それに対してNETは、日プロではなく猪木・坂口を選択。73年3月限りで日プロの中継は打ち切り。翌月からは新たに猪木の新日本プロレスの中継を始めたわけです。

日プロは、テレビを打ち切られ、営業部社員は全員辞表を提出。もはや会社としての興行機能を失うものの、大木金太郎、篠原長昭らがお金を作り、選手会主催によって、日本で絶大な人気を誇る"鉄の爪"フリッツ・フォン・エリックらを招聘してシリーズを開催。

しかし、残念ながら大木金太郎の壮絶な流血試合の甲斐もなく、開幕戦の大阪府立体育館(4月13日)は閑古鳥。翌日に冒頭の記者会見となった……というのはもうプロレス関係の出版物で何度も振り返られていることです。

日プロの崩壊については、最近になっても「新証言」が出てくるほど、いろいろな意見が出ているし、また肝心な部分は未だに謎に包まれています。

私が気になるのは、あれほど隆盛を誇っていた日プロが、ジャイアント馬場が離脱後、たった半年で興行機能が停止するほど弱体化するという事態です。

当時の生き証人であるユセフ・トルコの著書では、日プロがつぶれたのは「幹部が湯水のごとく金を使ったからではなく、表沙汰にできない金の支出があったからだ」という当時の三沢経理部長のインタビューも出ています。

三沢氏は墓場まで持っていくそうですが、ファンとしては、ちょっとばかり気になる昭和プロレス最大の「闇」です。

記者会見で、日本プロレスりレスラーはは百田家に帰る、という言葉を大木金太郎は残しています。

これは、百田敬子さんが社長として登記しているもともとの日本プロレスに「帰り」、その役員にジャイアント馬場がいるという関係で、全日本プロレスへの合流が必然となったわけです。

ちなみに、芳の里と大木金太郎もその会社の役員となりますが、それは、百田敬子さんには、その3人が経済的な援助をしていたからです。

それで、実はわたしは、代官山にあった日本プロレス興業株式会社の登記簿謄本もとったことがあります。

解散はしていますが、清算をしていないので、登記上は残っているのです。

ただし、役員は存在せず、監査役のみ2名登記されているだけです。

たしか、最後は芳の里社長だけが残りましたが、長谷川淳三氏の名前もありません。

まあ、亡くなったので消えたと思いますが、機会があれば、今度は全部履歴を調べてみたいと思います。

日本プロレス事件史 vol.15 引退の波紋 (B・B MOOK 1253 週刊プロレススペシャル)

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  • 出版社/メーカー: ベースボールマガジン社
  • 発売日: 2015/11
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