坂口征二が全日設立決意したジャイアント馬場と

坂口征二の述懐で構成されていた「東京スポーツ」に書いている連載は、いよいよ昭和プロレスの謎の一つである、ジャイアント馬場の独立と坂口征二との会談にうつりました(11月18日付)。要するに、ジャイアント馬場は坂口征二を全日本プロレスに誘ったのか、誘わなかったのか。坂口征二はなぜ全日本プロレスに行かなかったのか。人間的にはアントニオ猪木よりも合いそうなジャイアント馬場と行動をともにしなかったのか、という話です。



すでに前回、坂口征二が、旗揚げ間もない新日本プロレスに誘われていたことは書きました。

坂口征二が新日本プロレスから「引き抜き」を打診されていた真相

ジャイアント馬場は、そうした陰の動きに敏感です。そして不寛容です。

坂口征二個人に対しては含むところはなくても、その時点で、坂口征二を全日本プロレスに連れていくことは諦めたのかもしれません。

それとともに、やはりジャイアント馬場はプロレスラーであり、プロモーターでもあります。

柔道で実績を作り、格闘家としての素養がある坂口征二は、自分のところよりも、“闘魂”アントニオ猪木と一緒にやったほうがいい、という意識もあったのではないかと思います。

さらに、すでにジャンボ鶴田をスカウトしていた全日本プロレスとしては、長身でキャラクターがかぶり、プロレス的身体能力にまさるジャンボ鶴田の存在は、坂口征二、ジャンボ鶴田、お互いにとってよくないのではないか、という判断も働いたのかもしれません。

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注目のジャイアント馬場ー坂口征二対談は……


日本テレビとともに新団体旗揚げの準備に入っていた馬場さんから呼び出しを受ける。
 場所はホテルニューオータニのスカイラウンジ。馬場さんはプロレス転向以来、兄貴のように慕ってきた先輩。私を新団体に誘ってくれると直感した。
 ところが馬場さんは一言も「一緒に来い」と言わぬばかりか「坂口、お前は日プロに残って会社を守れ」。
私としては「はい、そうですか」とも言えず、心中は複雑だった。当時、私が馬場さんから「2000万円もの支度金を積まれた」なんて報道もあったが、それが真相だ。一部の人からは「お前はプロレス転向以来、馬場さんに世話になっていたのだから、何も言われなくても馬場さんに付いて行くべきだ」とも言われた。だが、私をプロレスの世界へと誘ってくれた芳の里社長に対する恩義も大きい。裏切るワケにはいかない。

ということです。

ジャイアント馬場としては、「どうせ自分が抜けた日プロはいずれつぶれる。ここで無理に引き抜きをするより、日プロを刺激しない方が、外人ルート確保やNWA加盟などを考えると得策だ」と思ったこともあったろうと思います。

坂口征二の連載によると、その後、日本プロレスは、NWAタッグリーグ開催の頃、すでにギャラの遅配が始まっていたといいます。

夏のシリーズまでジャイアント馬場はいたはずだから、あまりにも日本プロレスの傾き方が速い。

この頃、週2回だったNETの日本プロレス中継(ワールドプロレスリング)は、週2回放送から週1回放送に戻りましたが、「金曜8時」というプロレスの歴史的枠に放送されていたため、ドリフという強力なライバルがいた当時の全日本プロレス中継よりも、むしろ視聴率は高かったほどです。

にもかかわらず、そこまで落ちぶれたのは、たぶんプロモーターがこぞって、日本プロレスから全日本プロレスに流れたのではないでしょうか。

興行が存分に打てなければ、興業会社は成り立たちません。

この当時については、「テレビがなければ団体運営はできない」といわれました。

それもないとはいえないでしょうが、やはり当時はプロモーターの力が強かったのではないでしょうか。

昭和プロレス、相変わらず奥が深いです。

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